3/22のMy Life(My Dairy)の中で喘息症状の事を書いてから約一か月半が経ちました。
以前、1月~2月に掛けて職場だった和菓子屋の八戸にあるお店が人出不足で 私しか販売店に立てる人がいなかったために、通勤・出張が続きました。 既に喘息症状が悪化していた中だったので、時間と環境の変化に体が付いて行かず 咳がどんどん酷くなる一方で、夜は全く眠れないと言うか、横たわれない日々が続いていました。 とうとう耐えられずに、上司にもう「八戸には行けない」と訴え 出勤出張を取りやめて欲しいと懇願・・・しかし「あんたしか行く人がいないから」と 突っぱねられ・・・。
それでも、やはり体は言う事が利かなくなってきていたので、 「どうしても無理、このまま行ったら命に関わったら困る」と訴えました。 何とかその願いは聞き入れられたものの、しまいには「今後の事を考えるように...」 と言われてしまい。それから暫く・・・・あれこれと考える日々が続き ますます眠れなくなってしまい、ストレスもピークになっていきました。
既に「ひな祭り」が近づいて来ていたのもあったので、それが終わってから上司と相談。 自分の中ではある程度、意思決定はしていたものの、上司との話をした上で 今後の事を決めようと思いました。
もう1・2年位前から出張の後には体調が悪くなる事が多く、特に昨年の夏の東京駅での 長い出張後が一番大変でした。店内と店外(バックヤード)との気温差でやはり喘息が酷くなり ついでに急性咽・喉頭炎まで併発。しまいには喉に梅干しの種が引掛かったような異物感に 悩まされ、咳をする度に吐き気がして大変でした。 特に夏祭りとお盆も重なり、勤務がハードになり夜遅くまで残業が続く日々でした。
この症状は西洋医学的な症状名では「咽喉頭異常感症(いんこうとういじょうかんしょう)」や「ヒステリー球」。 東洋医学では「梅核気(ばいかくき)」「咽中炙臠(いんちゅうしゃれん)」と言うそうです。一番の原因はストレス・・・。私自身、すでに更年期もあり、自律神経の乱れも 重なったからだったと思います。
参考:https://latte.la/column/30510049
その後は出張に行く事が殆どなくなりました。(それは上司の判断だったと思います) 喘息に罹患してからは、極力風邪を引かないように、気を付けていたのですが、 韓国から帰国した3月には風邪も引いてしまったために、喘息症状が悪化を辿る一方でした。 上司のお孫さんが私と同じ喘息を患っている事もあり、そこは良くわかっていて 「冷凍庫に入ったり、粉ものを取り扱う関係もあって、長い間その影響が出たのではないか? 多分、このままここで働き続けるよりは、今の内に体に見合う所で働いたら・・」と言う事で 新しい人を募集し慣れるまでの5/20で退職をする事に決まりました。
私自身は可能ならこのまま出張などがなければ、少し楽な部署への配置転換をと 思いましたが、そうそう我儘も言えなかったし、はっきり言えば体力の自信も 薄れつつあった中だったので、とりあえず収まる所に収まった感じで 少しホッとして気持ちで凄く楽になったのです。 話し合い事体も揉めるような事もなかったし、万事良い方に向かっていた感がありました。 ところが、春彼岸に入る前に発作がドンドン酷くなり呼吸困難になりました。 彼岸目前でまた忙しさが増して来たのもあって、無理が祟ったのでしょう。 (その内容は3/22の所に記してるのでここでは書きません。)
完全にダウン・・・・体が全く言う事を利かなくなりました。 今までにない疲労感で自分の体ではないような気さえしました。 既に車を手放していた身だったので、徒歩・電車・バスで用事を足すので、 とにかく10分近く歩くと息が切れてグッタリと疲れて、途中で休まないと歩けなくなるんです。 3月と言っても、青森はまだ寒くて・・・ 今冬は雪が少なかったけれど、とにかく足取りが重いのです。 その上、会話ができない・・・と言うか、声を出して話すと息切れがしてくるため 普段、話好きの私でさえ、誰にも話しかけて欲しくないと言った感じでした。
鬱的な症状ではなく、とにかく声を出す事さえ体に負担がかかる状態でした。 色々聞かれて言い訳もしたくないと言うのもありました。 救急搬送になってからは、既に仕事が出来ない状態にもなっていたので、 診断書を提出して休職・・・。
このままでは会社にも迷惑になるなと思い 退職を早める決心をして、上司に伝えました。
3月下旬、病院からの薬の効果(精神安定剤も微量で服薬)もあり、 咳や喘鳴症状も少なくなり少しずつ眠れるようにもなりました。 大分春らしさが増して暖かったので、会社に私物を取りに外出。
それでも、スローでしか歩けないし、重い荷物は持てる状態ではなかったので、 段ボールに詰めて自宅に発送手続き、後輩に手伝ってもらいながら用事を済ませました。
今秋、大阪コリアタウンで開催する毎年恒例の「韓流スター絵画展」が今回で 10年を迎えるにあたり(恐らく最後になる??かはまだ判らないけど) お絵描き仲間と打ち合わせ会の計画が出ていて、ちょうどウヨンソロコンサートで 上京する予定があるので、その辺りの週末にお泊り合宿と決まりました。 そうなるとそれまでには何とかこの苦しい状態から少しでも抜け出さないと 行けそうもなかったので、とにかく無理をしないで回復させる事だけに集中しました。
今まで結構ムリをして、夜遅くまで起きている事が多かった生活・・・・。 まずは生活改善から!!
4/1の診療を境にピークフローメーターを使いながら喘息日記を付けながら 自己管理を徹底させる本格治療が開始。 (ピークフローメーターとはピークフロー値(十分息を吸い込んだ状態で、極力息を早く出したときの息の速さ)を測る医療用計測器。気管支喘息の管理に使用されるもの。
参考: https://www.erca.go.jp/yobou/zensoku/basic/adult/05_04.html
薬の服薬と吸入の良い効果が出て、咳がほぼなくなってきていました。 夜も良く眠れるようにもなりました。 ただ体力的には余裕もまだなく、掃除機をかけたり、一気に片付け物をすると 疲労感がドッと出て来る状態でした。
このままではソロコンサートに打ち合わせと一気に スケジュールを詰め込むのは、とても無理と判断。 でも今は体が一番大切と考えウヨンソロコンサートは断念する事に・・。
(無事にチケットも譲れる事ができて良かった・・・)
レントゲン検査もあるため、上京する日の4/7再度診療。 しっかり管理のために、日記やら薬・・と荷物も入念。 その夜に夜行バスで出発、最悪の状態から遠出をする事がなかったので、 さすがに少し不安でしたが、何とか大丈夫でした。 ただ・・・今までと違ってバスで眠れなくなりました。(精神的なものかもね) スーツケースを持っていて、とにかく長い階段の昇降が無理なので、 エレベーターとエスカレーターがホントに頼りになりました。
お絵描き仲間の友人たちと「ミュシャ展(スラブ叙事詩)」を観に行き 命の洗濯。
この時は既に会話もできる位に回復していました。
何よりもストレスフリーになった事が回復を早めていたと思います。 自分の体と言えど、思ったよりストレスに鈍くなって来ていたのかも・・・。
体が一番正直でそれに反応してサインを出してくれます。
お絵描き仲間との打ち合わせの時に私たちの友人が今、白血病で治療中であることを聞き
私たちが今できる事、しなければならない事を始めようと結集。 今の友人達の殆どは「ヨンジュン」を通して繋がりました。 最初はネットを通してのやり取りばかりでしたが「オフ会」やら「イベント」を 通して付き合いも深くなって行きました。その仲間とはもう早10年を過ぎています。
私にとっては同級生や幼馴染よりも深い付き合いになっています。 ヨンジュンを知ってからは、私の人生観も環境も趣味もできる事も変化しました。 多分、それがなかったら、現在の自分は存在してないと思う位、 価値観に変化をもたらしてくれました。
そしてまた、健康の大切さをも痛感しました。 友人のエッセイを読んで・・・病いは同じ意識を生むんだなと感じました。 自分よりもまだ大変な人が沢山います。それを思うと自分は幸福だなと・・
今回の事がきっかけで、あれこれと考えておかしくなるんじゃないかと思った事も あるけれど、
学んだ事・・・・これからの生きる指針ととなったのはただ一つ!
何に於いても「自分の心身(命)が一番大切と言う事」 そして・・・いくら健康な人でも、何分後か明日さえも何が起きるか判らない
今を生きると言うよりも、生かされている
今日と無事に済んだ事に感謝をし 明日もまた良い目覚めで明けるようにと祈っています。
勿論、喉元を過ぎると・・・・と言う時もあるでしょうが・・・(苦笑)
今に感謝。
Norita's Sometimes Various
noritaのSometime Somewhere Something・・・
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